美術とかアートとかそのせめぎあい点の

 自分の作品をテスト的に額装したページを公式内に作ってみたんだけど、

 額装結果で物足りないなと思う面と、これはこれで作品になってるよと思う面と、

 両方あって。少なくとも美術的アートではあるよなと(ジャンルとしては結局現代アート系になってしまうんだろうが)、思えるかどうかは、

 やっぱりその作品がコピー可能かとか、コピー前提にしてるかとか、大量生産が可能かどうかそこを前提にしているかとか、そこは大きいと思う。

 それ以上に着想面というのが確かにあって、純粋芸術的であるか、ってのも多分結構大きいので試行策誤する事にはなるんだろうけど、

 いずれにしても、描けた作品をコピーしてみたって、大概の場合は全くカラーコピー不可能なわけで。

(スキャンはぎりぎり可能な気もするが、結局調整しなくちゃならないし、紙出力じゃなくて印画紙出力じゃなくちゃ僕の絵はどれもこれも上手く色が出てくれないのだ)

 逆にカラーコピーした結果の色味がよくて、これはこれでいいや、というもの、その色味から着想して更に塗っていく、のような事もあります。

 人形造形だってその最たるものだよね。複製可能なのかこれ、っていう。

 複製可能ならアートで複製不可能なら芸術だけど、結局の所美術作品で、

 写真段階での発表も意味が無い事ではない、ってのは・・・球体関節人形ジャンルのベルメール氏すらそうだった。

 

 でも、今回ページ作ってて思ったのは、やっぱり多分自分の作品は、人体というか、そういう所での具象抽象とか、そういう面から着想して描く場合が多いんだけど、

 見る側に、基本的に美術として作品を見る感性ってのが無いと、伝わる筈のものも伝わってくれていないのかな、と思う部分がかなりあるわけで・・・その孤独ですよね。

 例えばドールだってそうで、一応新規の球体関節人形作りページの上の方にも書いてあるけど、

 自分が作ってる人形の写真を見て、そこに映りこんでる手について、あぁこの手は作ってる人の手なんだな(ここのページの作品群を作ってる人の手なんだな)と、思ってもらえない事には、伝わるわけが無い表現ってのもあるじゃないですか。

 作り手と、所有者と、って考え方はかなりベクトルが違うわけで。思い込まれ方が違うと、勝手に思い込まれるテーマも違ってくるし、

 他人に思い込まれてる自分のコンテクスト自体が、既に間違った状態にされてきたわけだけど。

 

 あと、そこに追加した文についてだけど・・・つまり、ミロのビーナスもサモトラケのニケも、多分小学校高学年か中学校低学年で学んだりする古典芸術(彫刻芸術)だったり・・・ルネサンス期の彫刻とかもみんなそうなんだけど、その美について、例えば両腕がないから想像力を働かせられて美しく見える、という教育とかもあるとは思うんですが、つまり、両腕があるなしではなく、本体部分がちゃんと作られているからこそ、目に見えている部分の美とかがちゃんと伝わったり、そういう事を考えるわけで。

 

 多分普通のヒーロー怪獣のソフビ人形が手足のない状態でネットオークションとかに出てても、そういう事は感じないわけで、

 そういう意味ではE9 nature の絵についても、何か生命的なよろこびとか逼迫感とか、そういうのを感じてもらえるなら、それは描いた部分や作った部分がちゃんと真に迫ってる(真実に迫ってる)って事なんだろうから、正解なんだろうな、と思うわけだけど。

 そういう風に感じてもらえるかどうか、って所に到ってるかどうかが、芸術かどうかって事なのかもしれないな、と。

 真に迫った作品、って、どういう方面から真に迫ってるのか?・・・というそこですよね。

 

 別に痛々しいものを作ろうとしているわけではなくて。恩師の恩師が「人間を幸福にするようなものを作りなさい」とずっと生徒達に言っていたらしいし、そういう所は大事なんだろうなと思うんですが。

 

 でも本当は、自然体で純粋に見てもらえればそれでいいんですよね。

 感想が自分に届く事は無いと思うけれど。