アニメや漫画ならでは、ってどこにあるか(リアルと想像と)

 下の「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の感想で書いた「表現力」というのは色々あるんだけど、主にアニメーションとしての「演技力」とかもっと根本的な「動き」「動画」の表現力だと思うんですよね。主に、キャラクターの心の動きとキャラクターの動きが直結しているシーン、天候も何もかも全てが演技していると思わせるような表現力。

 

 自分は個人で絵を描いてるので集団での総合芸術に参加する気というか予定は現状無く(僕はアニメ監督の晃司氏とは別人なので念の為)、そもそも人間を普通に描く事は少ない

(描けなくはない)し。で、例えばアニメや漫画ってリアルも表現できるけどファンタジーやSFも表現できる、そもそもそっちが真骨頂だ、という風に思っている。だけど、僕が多分業界で人間を中心に描いていたらこういう方向性が正しいとやっぱり思ってただろうなぁ、とは思うわけで。
 例えばそういうフィクション的な所って、ヴァイオレット・エヴァーガーデンにも普通にあり・・・
 ・・・例えば、この世界って、世界大戦後のヨーロッパみたいな世界観ではあるんだけれど、「電話」がやっと普及し始めてるかどうか微妙な時期なのに、ヴァイオレットの肩からの「義手」は完全にタイプライターを操作できるじゃないですか。順序的に考えれば神経信号で義手をコントロールできる技術が電話以前に完成される事なんてありえないわけで、それって空想ならではのフィクションそのものですよね?
 その時点でもうこのアニメって、絵本や童話的なファンタジーをリアルっぽい絵柄で描いている、っていう構造に「なってしまってる」わけなんだけど(なんていうかこれをもっとリアルに男性向けに描くとスチームパンク的表現になって間違う)、そういう昔見た絵本や童話の子供向けの語り方、を、最先端的なアニメの絵柄と表現で描いたらこうなる、という感じなわけで。
 そこを絵空事だなと感じてドン引きしてしまうかどうかってのは、多分人にもよる。例えばミリタリーオタクがこの作品を見て気分よくなる事はまず無いだろうと思うんですよね。(まぁこれを見て気分よくなるミリオタは色んな意味で違うだろと思うんだが)
 多分同じ人でも、その時々によって受容できるかできないかは違うし、多分その「絵本や童話的語り方」だと気付けなかったら、特にオタク連中が「見方を間違ってしまう作品」の典型なんだよね。
 でもその「技術的にありえないはずの義手」というものを存在させることで、この物語が成立していて、その上でものすごい量の自然な、無数のアニメーションの動きが描かれて、作品になっている、っていう。
 そこは多分自分が描いてるキャラクターのいわばセンスオブワンダーの積層によってキャラを存在させて演技をさせるみたいな方向性(僕みたいな方向性の描き手は他にもいるが)だと、全く違うと思われてるのかもしれないけれど、すごく微妙で繊細な所を大事にして絵を描く、という方向性自体には、近さを感じてます。
 自分の場合SFやファンタジーなど想像力を優先させて描きすぎるのかもしれないですが、それはそういうものがどこかにあるから、そこに希望が生まれたり、ストーリーの比喩の描きやすさが生まれたりもすると思います。
 現実からジャンプしている表現は、救いにはなるんだよね。ヴァイオレットの義手のように。
 (※ というか、自分にとっては神だの宇宙人だののモチーフ群の方が人間よりも身近でリアルなのだが・・・・・・
   話を戻すと、多分、ヴァイオレットの精神的な所もそうなんだが、彼女は「愛してる」が解らないのに他人の恋文など代筆ができるわけで、つまり、解っていなくても書けたり語れたりする、という事は、特に年少の描き手(※ヴァイオレットは作中でも結構まだ少女だったりする)にはよくある事なんだよね。
  それはつまりタイプライターで行う代筆でも、コンピューターを使う現代のアニメ製作でも同じで、生身の表現では無いのかもしれないけれど、だけど、という、それがありえない高性能の「義手」というフィクションで表現できている。
  でも、そういう経験は一般的に多くの創作に携わる人々に往々にあると思う。多くの人々が、そういう被害者や被害者の身近にいる人々の気持ちを、想像するしかないかもしれないけれど、描いてきたわけで。こういうアニメのスタッフにも原作者でも、例えば京アニにとって、あんな不幸が実際に起こるまではそういう事件の遺族たちの気持ちは想像するしか無かったのだろうけど・・・
  そういう描き方にも、ちゃんとした描き方もあれば、作品によってこれはひどいなって描き方もあるし。
  人それぞれにとって何がリアルなのかは全く違うわけだけど、リアルも想像も描けるのがアニメや漫画や絵画などなのだから、描いて構わないんだと思います。)